「佐野氏エンブレム」はデザインとしてダメという話

本投稿の前提として、佐野氏のエンブレム(修正版)はパクリではないとする。実際のところ私は、Theater de Liegeのものとは「似てしまった」だけで、意図的なパクリではないと思っている。


佐野氏のエンブレムは、デザインとして優れているという話がある。

その理由は、色や形がシンプルで視認性が良いとか、商品展開しやすいとか、まあそういうことだ。

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様々な分野において、プロの手がけたものが、一般人がパッと見た感じ「冴えないなあ」と思っても、様々な状況を考慮すると結果的に実は優れている、というのはよくあることである。

今回のエンブレムが単なるアート、芸術であるならば、より複雑で、突飛で、作者の主張や独自性の溢れるものとなっていても良かったかも知れない。しかしプロのデザイナーが手がけるデザインとしてはそんなものは失格で、佐野氏のエンブレムはそこまで考慮されているが故に優れている、というのは納得できる話ではある。

だが、プロのデザイナーによる作品としては、これだけでは片手落ちである。


「色や形がシンプルなデザイン」が求められているのであれば、似たようなものが世の中に溢れていることは、当然予測できるはずである。

「オリジナルなコンセプトに基づいて作成したから、オリジナルである」というのは、出来上がったものに似ているデザインが無いことを何ら保証しない。出来上がったデザインがシンプルな故に優れていると言うのであれば、似ているデザインが存在することは自明だ。それが商標登録されていないとしても、盗作だと非難されたり、著作権侵害で訴えられたりといったリスクは考慮してしかるべきだ。こんなことは一般人でもわかる。


さて、こんなことを言うと、「世界中の似たデザインを全て調べろというのか?」という文句が、デザイナー側から聞こえてきそうである。もちろん、芸術家が、アートとして、オリジナルなコンセプトに基づいて作品を出すのであれば、そんなことはしなくても良い。だが、プロのデザイナーとは一体何をする人なのか? それは、一般人にはできない計算に基づいてデザインを行う専門家ではないのか?

冒頭に、Theater de Liegeのものとは「似てしまった」、と書いた。これは「偶然似てしまった」のではなく、必然的に、似てしまったのである。似たものが現れることは必然だったのだ。であるならば、「シンプルにすれば似たものが出ることはしょうがない」で思考を止めていては、専門家とは言えない。


似た作品をゼロとすることなどできない。訴訟リスクをゼロにすることなどできない。それは当然だ。その兼ね合いをどう考えてデザインに取り込むか。これこそが、デザイナーに求められる技能ではないのか。どこまでシンプルにすると、どの程度の似た作品が現れ得るのか、と言う計算を入れ込んだデザインが、真に優れたデザインなのだ。

佐野氏エンブレムが、その計算が全く出来ていないダメなデザインであったことを、今回の経緯は証明している。