トリアージがかわいそう
議論の本題は「教師はどうあるべきか?」ということではないかと思った.
で,大学生はもう大人,だと思うので,
>つか、大学って小学校なんだ?
それこそ小学校じゃなくて大学なんだからさ、教師は自らの依って立つディシプリンの根底にあるロジックに対する疑義をきちんと汲みとるべきでないの?
「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か - 過ぎ去ろうとしない過去
というApemanさんのコメントについて,
やはりそれは小学校でやるべきではないかと思う.まあ,中学校でもいいけど.
大学の授業なら,それは生徒側が「この教師はそれをどこまで汲み取っているのか」というのを探るのが本筋ではないかと.つまり,教師側の思考原理とか論理とかがどうなっているのか,この授業ではどの程度それを考慮しないといけないのか,という.
教師側がくどくどと教えてあげるべき事柄ではないと思うし,そこに疑問を持った生徒に対しては「自分で解消しろよ」というのが教師の取るべき態度かなあと.まあ余裕があれば相手してあげても悪くはないだろうけど,そもそもそれを教えるのが目的の科目じゃないだろうしね.
それから,本題から離れた話として,
さて、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。
これが当たり前って言い切れてしまうのはすごく頭が良いというか良すぎるというか,要するにこれを「当たり前」と言い切れるに当たっては今までにいろいろな学問上の成果やら何やらがあったんだよ(リソースとか分配という概念は誰が最初に考え出してどういう経緯を経て形になって学問の俎上に乗っけられるようにしたんだろうか,とか),というのが感じられず複雑な気分になった.
さらに個人的な覚書として,
いやだって、どう見ても上のって全体主義理論じゃん!
資源の合目的的な最適配分って確かに全体主義的だけど,個々人の思考としてのそのような合理性を蔑む*1っていうのはパターナリスティックだよなあ,と思った.
*1:そんなことは誰も書いていないと思いますが