自由を提唱する二つの理由

その惨たらしさと切り捨てっぷりを承知しながらも、彼らがなおも自由を提唱するんだとしたら、それって一体どんな議論になるのでしょうか?

シロクマの屑籠(汎適所属) - だけども自由を志向できない


個人の自由が踏みにじられている現状、その惨たらしさと切り捨てられっぷりの方こそが承知できないと考えているから、彼らは自由を提唱しているのだろう。


彼らが自由をお奨めする理由は大きく分けて二つあると思う。


一つは、自由こそが最も尊重すべきものだから、というもの。

もう一つは、その方が結局みんなハッピーになれるんだよ、というもの。


前者の方は理由になっていないと言えばなっていない。突き詰めていけば、原理的にそうだから、としか言えない*1。これは簡単かつ強力で、私はこっちを心底信じられるようになりたいと思うのだが、他人に奨める上ではやっぱり後者の方も考えなければなるまい。


で、じゃあなぜその方がみんなハッピーになれるのか、という話になるのだが、これを説明するには相応の知識が必要であって、正直なところ私にはその知識が充分にあるとは言い難い*2

ただまあ中身はともあれこの理由から自由を提唱する人の主張としては、言ってみれば、痩せた豚と裕福なソクラテスとどっちがいいですか、となる。

しかしこれには反論が多々あるはずで、結論としては前者の理由に行き着くしかないというのがこのエントリの主旨だった。無知なくせに何言ってんだという話だが。


ともあれ、そうした知識、議論が常識となった上でなお、自由よりも不自由を望む人がいるとしたら、もうそれはそれで構わないというのが彼らのうち大多数が取る立場ではないだろうか。

「そういう人たちはそういう人たちだけで不自由なコミュニティを作ってください。我々のことは放っておいてください」と*3

*1:もちろん「突き詰め方」というものがあるのだが

*2:ちょこちょこと関連する駄文を書いたりはしている

*3:前者の理由を支持する人は、ちょうど民主制国家に住む人々が北朝鮮の国家体制について考えることと同様に、それは倫理的には許されないと考えるのかも知れないが