「TSMC と Samsung の iPhone 6S モデルは類似したバッテリー寿命を示す」とアップル
本当のところは知らないが、アップルのコメントが上の記事とは正反対の主張をしているので、訳してみる。
以下は、公式コメントとやら。
iPhone 6s または iPhone 6s Plus に採用されている、Appleが設計したA9チップは、世界で最先端のスマートフォン用チップです。私たちが出荷する全てのチップは、Appleの最高の基準を満たしており、iPhone 6s の容量や色やモデルにかかわらず、驚くべきパフォーマンスと素晴らしいバッテリー寿命を実現しています。
バッテリーを使い果たすまで長時間の高負荷をプロセッサにかけるような幾つかのラボテストは、実際の使用を表すものではありません。なぜならば、非現実的なまでの長時間、CPUの状態を最高パフォーマンスに保っているからです。これは、実用上のバッテリー寿命を測定する上では、誤解を招く恐れのあるテスト方法です。私たちのテストデータと、お客さまのデータは、iPhone 6s と iPhone 6s Plus の、実際のバッテリー寿命を示しています。それによれば、部品の違いを考慮しても、バッテリー寿命は2〜3%のバラつきの範囲に収まります。
Apple: Data shows TSMC and Samsung iPhone 6S models have similar battery life | Ars Technica
Ars Technicaの記事のサブタイトルも、
「Battery life varies "within just 2-3%," regardless of component sources.」
なので、
「部品の製造元に関わらず、バッテリー寿命は2〜3%の範囲に収まる」
である。
繰り返すが、この主張が本当かどうかは知らない。
ただ、相手が何を言っているかは理解したほうがいいんじゃないですかね。
組体操は危険だからこそ価値がある
ダンスだとか長縄跳びだとかがブコメで提案されているが、無論そんなものではダメだ。見ている人が感動できるレベルになれるわけがない。
考えてみて欲しい。演じるのは素人の小学生だ。運動会前に多少時間をかけて練習したとしても、大したレベルには達しない。年間の授業時間を大幅に犠牲にして準備すれば、ある程度のレベルには達するかも知れないが、もちろんそんなことは許されない。
一方、組体操というのは簡単だ。ほとんどの児童は、基本的にはじっと耐えていれば良い。普通の小学生には難しくてとても実現できない、というのであれば、そもそもここまで全国的に流行しない。
では、そんなレベルの演し物を見せられた大人は、一体に何に感動しているのだろうか? ダンスや長縄跳びでは得られない感動とは、一体何なのか?
それは、練習の成果であるとか、演し物の完成度とか、そんなものではない。一歩間違えば大怪我をする、命にかかわるという危険を犯しながら、それをじっと耐え忍んでいる子供たちの姿に、感動するのである。
これは、危険であれば危険であるほどよい。ピラミッドの段は高ければ高いほど好ましいし、安全対策など無い方が良い。本当はさわやかな秋空の下ではなく、真夏の炎天下でやって欲しい。水分補給などもってのほかだ。崩落による怪我のみならず、熱中症の危険にも同時に耐え忍んでいるとなれば、これはもう格好の見世物である。
リスクだけを考えていてはスポーツなどできない、などという反論はただの建前であり、的外れである。リスクを取ることに価値があるのだから。
そんなことはない、自分は、子供たちが一つのことに取り組み、課題を乗り越えて何かを達成する姿に感動するのだ、と言う人に問いたい。
もし、組体操に安全対策をしたらどうなるか。下は土のグラウンドではなく、最先端の衝撃吸収材を敷き詰めた、組体操用のマットを用意する。さらに全ての児童が、ヘルメット、肘、膝等の関節にプロテクターを装備する。眼を守るゴーグルも必要だ。突き指を防ぐためグローブも装着しよう。当然ピラミッドの横には丈夫な建造物、あるいはクレーン車などを備える。二段目以上の全ての児童に個別に命綱を付け、ピラミッドが崩落した場合にも決して落下しないようにするためだ。それから、医師と救急車も配備しておこう。いや、そもそも学校ではなく、設備の整った病院の敷地内で行う方が良い。
そのような安全対策が取られた組体操を見ても、「同じように」感動できるだろうか?
我々は、「危険を顧みない行為」に対して感動を覚える回路を持っている。それ自体は否定されるべきものではない。問題は、その危険を他者に強要することである。かつて奴隷をライオンと戦わせ、現代では子供たちには組体操をさせ、それで我々は一体何を得ようとしているのだろうか。
「佐野氏エンブレム」はデザインとしてダメという話
本投稿の前提として、佐野氏のエンブレム(修正版)はパクリではないとする。実際のところ私は、Theater de Liegeのものとは「似てしまった」だけで、意図的なパクリではないと思っている。
Tokyo 2020 Olympics logo scrapped after allegations of plagiarism http://t.co/k4E1LMfuZe pic.twitter.com/X0JFgtqcqb
— The Guardian (@guardian) 2015, 9月 1
佐野氏のエンブレムは、デザインとして優れているという話がある。
その理由は、色や形がシンプルで視認性が良いとか、商品展開しやすいとか、まあそういうことだ。
様々な分野において、プロの手がけたものが、一般人がパッと見た感じ「冴えないなあ」と思っても、様々な状況を考慮すると結果的に実は優れている、というのはよくあることである。
今回のエンブレムが単なるアート、芸術であるならば、より複雑で、突飛で、作者の主張や独自性の溢れるものとなっていても良かったかも知れない。しかしプロのデザイナーが手がけるデザインとしてはそんなものは失格で、佐野氏のエンブレムはそこまで考慮されているが故に優れている、というのは納得できる話ではある。
だが、プロのデザイナーによる作品としては、これだけでは片手落ちである。
「色や形がシンプルなデザイン」が求められているのであれば、似たようなものが世の中に溢れていることは、当然予測できるはずである。
「オリジナルなコンセプトに基づいて作成したから、オリジナルである」というのは、出来上がったものに似ているデザインが無いことを何ら保証しない。出来上がったデザインがシンプルな故に優れていると言うのであれば、似ているデザインが存在することは自明だ。それが商標登録されていないとしても、盗作だと非難されたり、著作権侵害で訴えられたりといったリスクは考慮してしかるべきだ。こんなことは一般人でもわかる。
さて、こんなことを言うと、「世界中の似たデザインを全て調べろというのか?」という文句が、デザイナー側から聞こえてきそうである。もちろん、芸術家が、アートとして、オリジナルなコンセプトに基づいて作品を出すのであれば、そんなことはしなくても良い。だが、プロのデザイナーとは一体何をする人なのか? それは、一般人にはできない計算に基づいてデザインを行う専門家ではないのか?
冒頭に、Theater de Liegeのものとは「似てしまった」、と書いた。これは「偶然似てしまった」のではなく、必然的に、似てしまったのである。似たものが現れることは必然だったのだ。であるならば、「シンプルにすれば似たものが出ることはしょうがない」で思考を止めていては、専門家とは言えない。
似た作品をゼロとすることなどできない。訴訟リスクをゼロにすることなどできない。それは当然だ。その兼ね合いをどう考えてデザインに取り込むか。これこそが、デザイナーに求められる技能ではないのか。どこまでシンプルにすると、どの程度の似た作品が現れ得るのか、と言う計算を入れ込んだデザインが、真に優れたデザインなのだ。
佐野氏エンブレムが、その計算が全く出来ていないダメなデザインであったことを、今回の経緯は証明している。
例の談話の情報圧縮
何のための談話だか知らないが、「どんな文言が盛り込まれるか」だけに着目されているのを見て、刑務所で番号を言うと囚人が笑うジョークを思い出した。
いっそ、植民地支配=A、おわび=B、侵略=C、反省=D、とかって事前に決めて、「ACD!」みたいに叫んで終わりにすれば良かったんじゃないの。それでなんか違いあるの?
これから警視庁の調べで分かりそうな金を得られる仕組み
クリック報酬型広告
ブログやホームページに広告を掲載し、その広告を閲覧者がクリックすると金が振り込まれる仕組みだったことが警視庁の調べで分かりました。
クラウドファンディング
新事業や新製品などのアイディアを投稿し、アイディアに賛同する人が出資することで金を集められる仕組みだったことが警視庁の調べで分かりました。
株式投資
企業の所有権の一部を購入し、より高く買ってくれる人に売りつけることで差額を儲ける仕組みだったことが警視庁の調べで分かりました。
民放
テレビ放送を通じて視聴者を集め、広告を閲覧させることで、広告を出稿した企業から広告料を得る仕組みだったことが警視庁の調べで分かりました。
NHK
協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者に対して受信契約を結ばせ、受信料を徴収する仕組みだったことが警視庁の調べで分かりました。
原子力発電所をどう呼ぶべきか問題
ある程度物理を勉強した人からすれば、「核」は「核」であって、それが忌わしい意味を含むというような印象は全く持っていないだろう。
また、「核」「原子力」という単語が持つ一般的なイメージは、それが表す概念が変われば変わりうる。
例えば、村上春樹の言うように「核」という言葉を発電に使うとする。また、「原子」を兵器の方に使うとする。その状態でしばらく時代が下れば、第2の村上春樹が、「発電所を核と呼ぶのはおかしい。兵器と同じように原子力発電と呼ぶべきだ」と主張するようになるだろう。
もちろん、同じ言葉で発電と兵器の両方を表しても良いが、もし「兵器を発電と同じように考えるなんてけしからん」という意見が出て来ないとすれば、それは「火力」が、発電形態と「兵器の威力」の両方を表しながら全く別物として考えられているのと同じように、別物として受け入れられたということだろう。
本題。
日本語で原子力発電所をどう呼ぶべきか。
原子力発電は、火力、地熱、太陽熱と同じように、汽力発電の一種だ。要するに熱を使って蒸気を作ってタービンをぶん回す発電である。
また、水力、風力は熱は介さないが、タービンをぶん回して発電するのは同じだ。これらを統一して、「なんとか力発電」と呼ぶことにすれば座りが良い。さらに、「なんとか」の部分は漢字一文字にすると見栄えも良い。
地力(地熱)発電、水力発電、火力発電、風力発電、光力(太陽熱)発電、核力*1発電。
漢字一文字を抜き出すと、地・水・火・風・光・核、となって、核にラスボス感が出る。
核融合反応云々の話がブクマであったが、核融合も結局は汽力発電なので、「核(分裂)を倒したと思ったらラスボスが第二形態に変身し、核融合となった!」みたいにどんでん返しに使える。
また、太陽熱も核融合反応が元になっているみたいな話も出ているが、「真のラスボスは、既に倒したと思った『光』だった。『光』の実体は、遥か遠い恒星上にあったのだ!」みたいに、続編への期待が高まる。
さらに、同じく核融合反応が元になる太陽光発電では、「実は、これまでの敵とは全く別の『光』が存在していた!(太陽光発電はタービンを回さない、ソリッドステート)」みたいに、もうインフレ行くとこまで行って、ネタ切れで打ち切り間近な感じになる。