「合意」を優先する社会


その「少女」は本当にいないのか? - OAF

この問題に関して考えるなり議論するなりする上で、まず最初に押えておかなければいけないのは、いわゆる児童ポルノは社会的な悪である、ということが合意されているかどうかということだ。
ここをアイマイに各論(表現の自由とか)に入ったって得るものは何も無い。


表現の自由が「各論」で,それよりもまず社会的な合意を考えるべき,と考える人がいるわけだ.


もちろん,どのような合意であれ,それが形成された社会の存在を禁止するべきではない.

児童ポルノ見てる奴は異常」という合意が形成された社会はある人にとっては「好ましくない」かも知れないが,別の人には好ましかろう.それは問題ではない.

ただし,この「社会的な合意」が,社会的に合意されたからという理由だけでもって法規制に昇華し,個人の自由を侵害するのだとしたら,それは問題だ.


というか,それこそが問題なのだ.

児童ポルノ見てる奴は異常」とかのネガティブなイメージの流通は「差別」を助長するので好ましくないと思うが、一方児童ポルノがネガティブメッセージを伴わず表立って流通するなら、それは一体何を助長する効果があるのか、まったく考えないのだろうか?

ネガティブメッセージは,いくらでもいかようにでも,自由に発信すればいいのである.ただ,「法規制すべし」というのがいただけない.

法で規制されないものはネガティブではない,という考えは,全ての「悪い」ことは漏らさず規制する必要があるという主張につながってしまう.


その行き着く先にどんな社会があるかは明らかだろう.