道徳とは関係の無い話

そこで私が「その200円」をアフガニスタンのその家庭に贈ったために足りなくなった200円で、パキスタンの子供が飢えて死んでしまうかもしれません。それではともう200円用意して子供に贈ります。すると今度は私がその400円をまわせば助かったかもしれないミャンマーの老夫婦が死んでしまうのです。

こういう無限責任をふつう人は負うことはありません。

uumin3の日記 - 道徳的詐術

元ネタはG★RDIAS - 「本当は、できるでしょう?」の原初的風景

なぜ負うことは無いのかというと、人の命が失われることと自分の財産が失われることは自分にとって同じ物差しで比較し得るものだから。


つまり、200円を払うことで得られる価値として、私が食べるおやつの方が、アフガニスタンやらパキスタンやらミャンマーやらの人たちの命よりも高い、と私が判断しても構わない(禁止されない)ということだ。

ある一瞬だけを切り取れば、ほとんど誰にだって募金はできる。明日のメシを考えなければ。一瞬先の命を考えなければ。身体という資本があるので、ぜんぜん売り物にならない人のほうが珍しい。ということは、ある一瞬で見ると、ほとんど誰もが「募金できる」が「募金しない」のであり、「間接的な人殺し」である。……というのはなんかおかしいので、自分の生活に困っている人は「募金できない」ことにしよう、とすると、それはどこで線を引くのだろう?

ymd-yの日記 - 責任を負えないことに責任を感じるのは悪いことだってカケル君は言ってたよ!


そう、つまり自分と自分の財産に線は引けないということだ。不可分なのだ。他人が強制的にそれを侵すことはできない。それこそが禁止されるべき行為である。


そして、仮に目の前に死にそうな子供がいて、私が200円あげれば助かる、という状況であっても、それは言えるはずである。ルールとして、そうなっているべきだ(と言うよりも、そうなっているのではないか)。

ただしその状況で200円をおやつに使うという人間は多くない、というのが前提として存在して欲しいと思うし、事実そうなのであろうと思う。