優秀な学生が「やり方は間違っていたが世の中を変えようとしたことはすごい」と言うことについて

単にやり方が間違っていただけで、世の中を変えようとした意図や、実際にアクションを起こしたことは素晴らしい。

そう言いたい気持ちは良くわかるし、特に相手が20才そこそこの学生であれば、実際その通りだと個人的には思う。

だが一方で、世の中の多くの大人がそうした考え方に対して拒否反応を示すのは、決して人の失敗を嘲笑したいからとか、生意気な若者を見下したいからとか、そういう理由から「だけ」ではないことは、知っておいてほしい。特に、あなたが世間から「優秀な学生」であるとみなされているような場合には。


かつて、世間で一流と言われる大学を卒業した大勢の学生たちがいた。彼らは、世の中にある様々な理不尽に対して本気で悩み、迷い、考え、やがて、彼ら自身のアイディアではなかったが、それらを解決するある手段に行き着いた。

おそらく、彼らの意図には、名誉や権威への欲望とともに、世の中に対する善意も確実に混じっていた。問題を感じ、世の中を変えたかった。そして、実際にアクションを起こした

世間は、なぜ「優秀な学生」だった彼らがそのようなアクションを起こしてしまったのか、全くわからなかった。今もわかっていない。邪悪な首謀者に完全に洗脳されていた、と結論できればどれほど簡単だったろうか。たしかにそういう側面もあった。だが、それだけでもなかった。


もちろん、上記の事象と、今回の出来事とは、全く何の関係もない。共通点を見出そうとする意味すらないのだろう、とこれを書きながら考える。

それでも、優秀な学生が「やり方は間違っていたが世の中を変えようとしたことはすごい」と言うとき、素直に同調できない大人がいることもまた宜なるかな、と感じている。

小保方氏が実験に参加する意味と、小保方氏を実験に参加させる意味

どうせSTAP細胞なんて無いんだし、小保方氏を実験に参加させるなんて時間と税金の無駄、というのは誰もが分かっている。つまり、この実験参加には、少なくとも科学的な文脈において、意味などない。

小保方氏、2日目は出勤 検証「頑張って行ってきます」:朝日新聞デジタル
小保方氏 成果なければ実験打ち切りも NHKニュース

では、どんな文脈でなら意味があるのか。

まず小保方氏サイドから考えれば、これはもちろん雇用問題である。小保方氏は、『STAP細胞の存在を信じ、実験結果を「改竄と知らずに」改竄してしまった被雇用者である』と言う主張を崩すことはできない。つまり、小保方氏には能力は足りなかったかもしれないが、懲戒解雇に値するような不正はしていない、ということだ。

よって小保方氏は、経過や結果がどうであれ、STAP細胞の存在を信じている体で実験を続けるしかない。もちろん理研側が実験を打ち切った際には、体調不良や、理研側が与えた実験環境が不十分であることを、再現できなかった理由として挙げるのだろう。

次に理研サイドであるが、一つには当然、科学のことなど何一つわかっていない「上」に対するポーズというのはある。現在の理研の立場を考えれば、上がやらせろというならやらせるしかなかろう。

【STAP問題】下村文科相「小保方さんを活用して細胞の証明を」 - MSN産経ニュース

また、世間に対しても、悪いのは小保方氏であり、小保方氏が嘘をついていたのであり、小保方氏が巧妙な不正を行っていたのであり、つまり理研は小保方氏に騙された被害者である、と主張したい。小保方氏に実験を行わせることにより、そういった世論が実験の進捗とともに、もとい実験の停滞とともに徐々に形成されていく可能性はあるかも知れない。どちらにしろ世論というのは移ろいやすいのだ。

そしてもう一つ。理研にとって理想的なのは、「監視の目をかいくぐって小保方氏が巧妙に(以前と同じように)不正を行う現場を押さえる」である。結局のところ、理研は、小保方氏の指導者がこれをできなかったことが問題の発端だと主張したい(「指導者は不正を見抜くことはできなかったかも知れないが、不正に加担をしてはいない」)のだ。遅きに失したとは言え、これができさえすれば、小保方氏を解雇することは比較的簡単だろうし、理研は不正を許さない公明正大な組織であると主張できる。今後は不正が行えない体制を構築可能であるとアピールできる。

もちろん、最後のシナリオが達成されることは小保方氏サイドの利害を考えればありえない。と思う。よって、何ら実りのないだらだらとした経過報告が、今後行われていくのだろう。

イケダハヤト氏が高知に行くと聞いてイメージが覆された

イケダハヤト氏については時々ホッテントリで読むぐらいですが、東京から高知に引っ越すというエントリを見て、思ったことを書こうと思います。

イケダハヤトが高知県に移住した10の理由 (1/2)

イケダハヤト氏は、自分が「面白い」と思うことしかやっていなくて、それを生業にしている。好きなブログを書いて、好きなように稼いで、楽しく幸せに生活している人、というイメージを、私は持っていました。

でも、東京で消耗するのは止めて高知に引っ越す、とか何とか聞いて、えっそうなんだ、住む場所によって消耗しちゃう程度の楽しい生活だったんだ......大変だったね、無理しないでゆっくりしてね、と言う感じで、イメージが覆されたとともに、何だかいたたまれない。

私自身は、自分の今の生活は面白いことばかりではないし、本当に今の仕事が好きかとか他にやりたいことがあるんじゃないかとか言われると、正直言って考えてしまって答えが出ない。もちろんブログを書いて生活するなんてのは絶対に嫌だけど、自分が本当に面白いと思うことだけをやって生活する、なんてことが可能になったなら、きっと住む場所なんてどうでも良くなるし、どこに住もうが消耗なんてしないだろうなあと思うのです。

でもイケダハヤト氏は、少なくとも今までは、そうじゃなかったんだ。住む場所なんてどうでも良さそうな感じに思っていたけれど、そんなに大変なことだったんだ、と、何だか寂しさを覚えました。

そして、であるならば、この先別の場所に住んでも、その場所場所にある何らかの作用によって、消耗してしまうことは原理的に避けられないという事実に、やるせなさを感じます。

結局のところ人は悩みから逃れられない、というありふれた話を、イケダハヤトというファンタジーを通してまた知らされたのが意外だっただけ、ではありますが。

デンタルフロスには意味が無いかも知れない

BBC - Future - Does flossing your teeth prevent tooth decay?

「どれぐらいの頻度でフロスをやってますか?」

歯医者に行くと必ずと言っていいほど聞かれる質問だ。歯磨きと同じように1日2回のフロスも重要だと教えられるが、実際のところフロスがどれぐらい役に立つのか、我々はちゃんと知っているだろうか?

まとめると、虫歯を防ぐかどうかはかなり微妙。歯肉炎予防は、虫歯予防よりは根拠がありそうだが、さほど確たるものでもない。(かと言って効果が無いと結論が出たわけではない。) 逆に、間違ったやり方で歯茎を傷つけてしまうこともありうる。

自分は1日1回しかやらないが、もはや習慣化していて、やらないと気持ち悪い。でも、あまり過信しないほうが良さそうだ。

実験ノートが落書きレベルだから小保方氏は悪くない

実験ノートの一部が公開され、その内容が批判されている。

だが、当然ながらこの公開は「ちゃんと実験ノートが取られていた」ことを示すためのものではない。「小保方氏が(自らがちゃんとした実験と信じる)実験を行い、その結果、STAP細胞の存在を(なぜか)信じてしまった」という事象を示すためである。

小保方氏の代理人は、当初からこの問題を理研の雇用問題として扱っている。論点は、STAP細胞が存在するかとか、科学的に正しい手続きが取られたか、ではない。STAP細胞の存在を信じ、実験結果を「改竄と知らずに」改竄してしまった被雇用者に対し、雇用者である理研がどのような処置を下すのが適切か、ということだ。

あれだけのことをしておいて「改竄と知らずに」とは何事か、と思うかもしれない。だが、大事な実験ノートに落書きをして良しとする人間に、論文の改竄や捏造の何たるかを理解しろ、というのはそもそも酷な話であろう。

理研の「不服申立てに関する審査の結果の報告(全文pdf)」には、Science誌投稿時の査読コメントを引いて、「真正なデータの提示が求められていたことは認識していたと認めるのが相当である」などと記してある。しかし、小保方氏が何かを(それが何であれ)正しく認識するなどということが、果たして可能なのか。

問題は、そのような研究者を雇用し、ある程度の待遇を与えていた理研側にある。「ごんめー! 評価間違えちゃってたわ。君クビね、ごんめー!」などという対応が許されるのか。結果的に、雇用の継続が不可能であると判断されたとしても、何らかの補償を勝ち取りたい、そのためには理研のあらゆる対応のマズさを指摘しておきたい、というのが、代理人の目指すところではなかろうか。

死ぬ前に後悔することなんて割とどうでもいいという話

死ぬ前、もうすぐ死ぬ、ってときに後悔していることが何々で、だからその何々をやっておこうみたいな話がある。


結局全部で何個あるんだよって感じだけど、それは置いておくとして。

もしこれらが、「死の床について改めて考えてみると、こんな後悔があるなあ」って話だったら、割とどうでもいいと思う。なぜならば、どっちにしたってもうすぐ死んでしまうのだから。つまり、その後悔に費やす期間はすごく短いということ。今日の夕飯にラーメン食べたけど餃子も食べればよかった、並に後悔期間が短い。

もし「後悔の少ない人生」を送りたいなら、死ぬ前の一時の後悔を避けるために、自分の労力や時間を費やすべきではない。それよりも、今、後悔していて、かつ今後もずっと後悔し続けるだろう、ということの方が重要である。死ぬ間際よりも、今どうなのか、を考えた方がいい。

かけ算の順番と、助数詞について

以前、かけ算の順番についてこんな皮肉を書いた。(当然ながら私は順序否定派である。)正直なところ、この話題に関して今更付け足したい新見解など私にはない。みんな黒木先生のサイトを見れば良いと思う。

 

ところで、先日「Open ブログ: ◆ 掛け算で単位を書くべきか?」という記事を読み、後者に下記のようなブクマコメントを残した。

 

「8の単位は(円/冊)であり、50 の単位は (冊) である」と見なすことはありえない。→ それがあり得る(文章が理解できない子供がいる)ので、じゃあどういう風に教えましょうかね、という話なのだが。

 

すると id:blueboy さんから

 

「ありえない」は「論理的にありえない」「論理的に成立しない」という意味。

 

という指摘が入った。

 

しかし、これは、文章が理解できない子供がいる、という意味でありえるのとは別に、論理的にもありえるし、成立するのである。「助数詞を安易に単位扱いしない方がよい」と黒木先生らしき人が上記ブログのコメントに残している理由に関連するのだが、例えば「掛け算順序問題の画期的な解決方法 - novtanの日常」やそのブコメなどを読んでも、あまり理解されていないように思える。

 

例えば、「うさぎが3羽います。耳の数は全部で何個でしょう?」という問題の式を、

 

3×2

 

としたとする。さて、3の助数詞は「羽」だ、それ以外は論理的にありえない! として良いのだろうか?

 

無論、ダメだ。「右耳が3個、左耳も3個あるから、3(個)×2(方向)」という説明が「論理的にありえる」からだ。

 

あるいは、もっと簡単に、「子どもが1列に4人並んでいます。列は5列あります。子どもは全部で何人いますか」という問題。そのまま4人ずつ5列と考えても良いし、「横から見たら5人ずつ4列だ」という説明にも、何ら論理的矛盾はない。

 

1冊50円のノートが8冊、という上記ブログ記事の問題については、思考の抽象度をもう少し上げる必要がある(少なくとも私にとっては)。1冊のノートを、1円分の価値を持つ部分に50等分したとする。(本当に切ってしまったら価値を減ずるかもしれないのであくまで概念上の話だ。)便宜上、50個の「部分」にそれぞれ(1)〜(50)と番号をつけよう。すると、1円の(1)が8個、1円の(2)も8個、という風に、8個合わせて8円の「部分」が、それぞれ50個あることになる。さらに8円の「部分」を1冊のノートとして作る、と考えても良い。つまり8には「円(上記ブログ記事に従うなら円/冊)」をつけ、50には「冊」をつけて数えることも、論理的には可能なのである。

 

別の例は「トランプ配り」で容易に見つかる。助数詞と式は一意に定まることなどない、ということを理解して頂けると思う。

 

もちろん、上記のような考え方のできる、つまり元々教えようとしていた「1つあたりの数がいくつ分」という概念を理解している、という子供であっても、こんなひねくれた考え方をする奴には算数の理解度なんてものにかかわらずバツをくれてやった方がいい、その方が本人の今後のタメである、という意見はあるだろう。それを紹介するのが、私が最初に示した皮肉である。